仏教3・0と神秘主義

 禅仏教は二十一世紀の文明に最もフィットした――それゆえに最も将来的な「需要」が見込まれる――仏教の一つかもしれない、という見方をとる人は日本の禅宗の関係者にも多い。
 そうした禅者のある人々にとって、「神秘主義」という言葉は、聞いただけでつい身がまえたくなる、そんな迷惑な響きをもつようです。
 わたしは、村上春樹の文学と仏教思想(とりわけ「空」思想)との親和性を論じた『村上春樹と仏教Ⅱ』(二〇一六)のなかで、これにまつわる話題にふれて、つぎのように書きました。

  ……「認識上の神秘主義」という評価には、たとえ肯定的な文脈でもちだされる場合であっても、日本の一部の禅僧などが非常に神経質にな るものらしく、ときに色をなして反駁したりする文章にでくわしたりします。

 このとき頭にあった「一部の禅僧」の文章の代表格が臨済宗の名僧として知られた秋月龍珉師(一九二一~一九九九)の一文。
 師はその著書『誤解された仏教』(講談社学術文庫。元は『誤解だらけの仏教』柏樹社一九九三)のなかで神秘主義を論じ、

 〝絶対者との合一を目ざす〟思想は広く神秘主義(mysticism)と呼ばれる。……しかし、仏教は断じて「神秘主義」ではない。

 と文字通り力こぶをいれておられる。
 実際、秋月師の『誤解された仏教』(全二十章)は、そのうちの一つの章を「仏教は〝神秘主義〟ではない」というタイトルの論述にあて、「神秘主義」の火の粉を払う熱心さを示しますが、ここでは、師がその際「神秘主義」という言葉の意味をかなり限定した形で用いていることに注意する必要があるかもしれません。
 たとえば、コンパクトな哲学辞典として定評のあるものに岩波の『哲学』(粟田賢三・古在由重編)があります。同社の小辞典シリーズにおさめられた一冊ですが、そこで「神秘主義」の項目を引くと、こんな説明がでてくる。

  神秘主義(英mysticism,独Mystik.)/真の実在(神、絶対者など)は、独自の直接的な内的体験(エクスタシスなど)によってのみ把握 されるとする説(カッコ原文)。

 この説明でわかるのは、「真の実在」は直接的な体験のなかでのみ把握されるというのが神秘主義の考え方であるが、その際、「合一」(対象との一体化)は神秘主義の実行者が選び取るやり方のあくまで一部にすぎないということです。
 要は、「合一」以外のやり方を、めざす対象把握のために「神秘主義者」たちが動員してもかまわないし、それはそれで可能だということになる。
 岩波の『哲学』は、神秘主義者が把握を試みる対象を「真の実在」と名づけていましたが、わたしは前出の拙著のなかでこの「真の実在」を「究極の真理」という言葉におきかえて、「神秘主義」についてこのように要約しておきました。

 「究極の真理はそれとの合一をふくむ直接的な体験によってのみ把握できる」という考え方――。

 周知のように、禅仏教は、こうした「究極の真理」の把握を一般に「悟り」と呼んできました。
 秋月師は、さきの著書のなかで、禅者の立場から「『本来の自己』を自覚することが『悟り』の内容だ」と明快に断じます。臨済宗とならぶ禅の宗派・曹洞宗の開祖の道元が「悟り」(「見性」)の強調を嫌ったことについても、それは「悟り」をむやみにふり回すことに慎重だっただけの話にすぎないと説きます。
 そのうえでこんなふうにのべています。

 「本来の自己」の実現……は「無我」のときにのみ成就する。「無我」すなわち「空」においてのみ「法が露わになる」(秋月前掲書)。

 秋月師はそのなかで、この「法」という言葉を「最も真実なもの」とかみくだいていますが、禅者が瞑想のもたらす心理的変化を通して「空」の体験を得、その只中に「最も真実なるもの」とまみえる――これはさきにみた「神秘主義」の中身を文字通り教科書的に実践してみせたものだといえるでしょう。
 秋月師は仏教系の花園大学の教授をつとめるなど、いわゆる既存仏教の禅僧でしたが、禅仏教に投げられる神秘主義の呼称に抵抗をしめしているのはなにも「伝統的」な禅者にかぎられません。
 一九九〇年代後半、日本の禅シーンは、スリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ師をリーダーとする南方仏教、テーラワーダ仏教(上座部仏教。昔の「小乗仏教」)やテーラワーダの瞑想法をとりいれた米国発の心理療法「マインドフルネス」(気づき)の上陸という挑戦をうけました。
 これらは既存の禅に安住する人々にとってまさに「黒船」的なインパクトをもたらしたのですが、面白いのはこの「黒船仏教」をさらにバージョンアップする第三の立場を主張する運動が二〇一〇年代の日本仏教で台頭し、しかも脚光を浴びたことで、そこでは既存仏教は「仏教1・0」、テーラワーダ仏教は「仏教2・0」と呼ばれ、第三の仏教は「仏教2・0」をさらにアップデートした「仏教3・0」であるとの位置づけがなされています。
 提唱者は禅宗の出身者たちですが、「仏教3・0」こそは「仏教1・0」「仏教2・0」を発展的にふまえた「進化型」であるとの信念に基づいた運動であることはいうまでもありません。
 そうした「仏教3・0」バージョンの提唱者の一人である曹洞宗の禅僧出身の山下良道師は、米国での禅の布教やテーラワーダ仏教の中心地の一つであるミャンマーの寺院での瞑想修行の体験をもつ「国際派」の僧侶として知られています。
 アップル社の共同創立者だったスティーブ・ジョブズが禅に傾倒したことはその死去のニュース以来日本でも広く知られるようになりましたが、山下師もふれているように最近の米国での仏教に対する関心の高さには目を見張るものがあります。
 山下師は、海外での豊富な瞑想体験をふまえて、自身の出発点である「仏教1・0」とその後体得した「仏教2・0」のそれぞれ良いところをとりいれて新しい瞑想メソッドを開発することに成功し、それが師の主唱する「仏教3・0」の柱になっています。
 秋月師と山下師は臨済宗、曹洞宗と所属した宗派こそ違え、同じ禅僧としてのキャリアを積んだ人物です。
 秋月師は禅の目的は「『本来の自己』の自覚・実現」(秋月前掲書)にあるとしましたが、このベースは禅僧をへてテーラワーダの僧侶にもなった山下師の「仏教3・0」においても変わりはありません。
 山下師には『青空としてのわたし』(幻冬舎二〇一四)という著書があります。「仏教3・0」の樹立に至るまでの試行錯誤をオープンに語った真摯さあふれる好著ですが、そのなかで「仏教3・0」の瞑想メソッドの実践の結果自覚されるものこそが、
「私の本質」
 であるとし、それを、
「青空」
 と名づけています。

  青空。
  それが私です。私の本質です。……
  どれほど誰かへの怒りや憎しみにとらわれ、苦しんでいるとしても、その怒りも苦しみも、みな青空に浮かぶ黒雲でしかないのです。……
  青空としての私ということを体験し、実感することが、生きるときも死ぬときも救いになるのです(山下前掲書)。

 山下師はこの「青空」としての私を(瞑想を通じて)実感したとき「死に対する不安は消え」、「心に積もっていた苦しみ」も「空に融けるように、ふわっと消えてしまいます」と説きます。
 一口に仏教といっても、禅宗のほか浄土仏教系、密教系、また日蓮宗と系統・宗派はさまざまです。
 仏教はブッダの死後数百年たった紀元前後に発生した大乗仏教運動のなかでヒンドゥー教の影響をうけ、キリスト教の「神」にも似た超自然的な崇拝対象をもちました。
 そんななかで、禅はそうした「神」をもたない点でブッダの教えを比較的忠実に引き継いでいるといわれます。
 ブッダもまた「神」的なものへの信仰には無関心で、瞑想修行を通じての「一切のとらわれからの解放」とそれによる「苦」の止滅を教えのゴールにおきました。
「ブッダ個人の瞑想」の中身を厳密に確定することは困難とはいえ、山下師のアプローチは少なくともそうした「ブッダの基本」を踏まえているようにもみえますが、ではこれは神秘主義なのでしょうか?
 秋月師は、禅の瞑想下の「悟り」を神秘主義の実践の所産と認めることを拒否しました。
 じつは、山下師は、「仏教3・0」と神秘主義との関係についてこんなことを語っています。

  私が神秘体験を端から問題にしないのは、私たちが瞑想で体験するものが神秘体験ではないからです。リアルなのです。……
  私たちは青空を(神秘主義者のように)偶像視なんかしません。青空に直接タッチしているからです。……
  偶像化するのは、自分と距離があるからです。つまり真理がわかっていないからです。青空に本当に触れていたら、青空を偶像視するとい  うことはありえません。それはリアルですから」(山下前掲書)

 しかし――さきにものべたように――「神秘主義」というのはまさに「真理」を「直接タッチ」することで把握するという立場をさすものです。直接体験とはそのことです。したがって、山下師の主張は、神秘主義者の呼び名をこばみながら一方で神秘主義の実践者であることを告白する内容をもつものだということになる(ちなみに、師は右の文章で自身が瞑想で体験するものを「リアル」と呼んでいますが、西洋哲学で「リアリティ」とは文字通り「観念」に対置される「究極の実在」の意味で使われています)。
 秋月師も山下師も、立場は異なるものの、「神秘主義」という評価に強い――わたしの基準では「過剰なまでの」――忌避感情を隠そうとしない点では共通しています。
 では、なぜこんなことがおきるのか?
 これはわたしの推測ですが、その理由を解く鍵は神秘主義者につきまとう一般的な印象、「エクスタシー」のイメージへの警戒心にあるのではないか?
 そういえば、さきほどの岩波版の『哲学』も、神秘主義について「真の実在は、独自の直接的な内的体験(エクスタシスなど)によってのみ把握される説」(カッコ原文)と解説していました。
「エクスタシス」とはギリシャ語で、英語のエクスタシーをさします。ただ、ここでは、その下に「など」という語が『哲学』の執筆者によってきちんとつけられていることに注目すべきでしょう。
 要するに、神秘主義者の直接的な内的体験はなにも「エクスタシー」にかぎるものではありません。
 あられもない忘我の境地というか、イッテる状態にならなくても、直接体験を真理把握のための方法として採用すれば、それが神秘主義です。
 山下師は、「仏教3・0」の瞑想メソッドによる「私の本質」(「青空」)のリアリティへの到達の素晴らしさを情熱的に説きます。
 ただ、瞑想などにそもそも関心をもたない人々の目からみれば、「静かな」瞑想下の意識の変成状態で「本当のわたし」を見てしまう人も「イッテる」人も、カメとスッポン程度の違いとしか映らないというのが偽らざるところでしょう。
 特殊な人、ヘンな人と見られたくないという気持ちはわからなくはありません。
 しかし、まったく特殊じゃなく、ヘンでもない人など、世の中にどれほどいるのでしょうか?
 そこまで考えると、山下師――秋月師もそうですが――の神秘主義の呼称への反発は、率直にいっていかにも窮屈な態度、こだわる必要のないことにこだわるものにみえてきます。
 山下師は『青空としてのわたし』のなかで「仏教3・0」登場の意義についてこうのべています。

  日本に根づいている教団仏教を1・0。一九九〇年代後半から急速にひろまったテーラワーダ仏教(上座部仏教)を2・0。つまりこの二 つが現在の姿です。そして、二つのそれぞれの難問を整理して、より納得できるものとした新しい仏教の姿を(わたしは)3・0と呼びまし た。

  1・0と2・0の両方のよさを生かすように、バージョンアップするのが最善の道となります。

  3・0なら、日本の大乗仏教(1・0)の人も、2・0の人も救われます。

 わたし自身は、風変わりな「エクスタシー」型の神秘主義者であれそれが操作的な意識のもとで追及されるかぎりは別に目を伏せたいとは思いませんが、それはともかく、山下師の提唱した「仏教3・0」が、「2・0」上陸以来の「2・0」対「1・0」の間のときに「原理主義的な」毒をふくんだとげとげしい反目状態に新鮮な風を吹きこんだことを否定できる人は少ないでしょう。
 それはまた、「1・0」や「2・0」を決してまるごと否定したりしない提唱者たちのフェアな態度のたまものでもあります。 
それだけに、「仏教1・0」や「仏教2・0」の人々の一部にみられた「神秘主義者」の呼称への肩肘張った姿勢を「仏教3・0」の提唱者が引き継いでいるのが奇妙にもみえてくるわけです。
 瞑想は「仏教3・0」の発明品などではありません。また、江戸の昔から道場で瞑想に熱中する人などごく少数の変わり者と相場がきまっていました。
 というわけで、新しい仏教の騎手としては、神秘主義者の呼び名をむしろてらいなく前向きに受け入れる。それが、仏教をめぐる議論の風通しの良さを確保し、地に足の着いた対話のための共通の土台作りに役立つのではないか? 「仏教3・0」をめぐって活発化する最近の議論に接するにつけそんな感想を抱くのです。

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