ゲノム編集技術〈クリスパー〉と仏教

 ここのところ、ゲノム編集の世界では、
「クリスパー」
 のもたらす未来についての話題でもちきりのようです。
 ゲノム編集とは遺伝子工学の分野で使われる用語で、医師や科学者がターゲットとする遺伝子を「ワープロで文字を編集するように」ピンポイントで削除したり書き換えたりすることができる技術です。
 クリスパーはその最新進化形の技術で、『ゲノム編集とは何か』(二〇一六年八月)をお書きになった科学ジャーナリストの小林雅一さんによると、その最大の特色は簡便性、「高校生でも数週間で使えるようになる」と専門家が口をそろえるほどあつかいやすい技術だといいます。
 こういう話を聞くと、ゲノム編集によりウサイン・ボルト級の運動能力をもつ子供、新垣結衣さんに酷似のルックスの子供、ノーベル賞学者並みの頭脳をもつ子供などを遺伝子操作で作る「デザイナー・ベビー」の誕生もがぜん現実味を帯びてくるようにみえます。
 このあたり、小林さんはそうした「SF的事態は一朝一夕には起きないだろう」とお書きになっていますが、はたしてどうでしょうか?
 わたしが「デザイナー・ベビー」の名を知ったのはもう二十年も前、米国の生物学者リー・M・シルヴァーの『複製されるヒト』(一九九八)という本を読んだときでした。
そのなかでシルヴァーさんは、遺伝子工学の発達により予想される「改良人間」の例として、動物の特殊能力をつかさどる遺伝子を埋めこむパターン、具体的には、
 ①コウモリの音波探知システムの遺伝子を移植され、暗闇でも「ものの所在を把握する」ことができるコウモリ人間
 ②鳥の磁気探知能力の遺伝子を移植された鳥人間
 ③ウナギの発電能力の遺伝子を移植されたウナギ人間
 ④ホタルの発光能力の遺伝子を移植されたホタル人間
などを紹介しており、当時わたしは読みながら、発電能力の獲得は電気代の節約のためかとかホタルのように尻を光らせて何が面白いのかと首をひねったものでした。
 が、技術の進歩もここまでくると、冗談ではなくデザイナー・ベビーに類した、
「超人類の世代」
 の誕生も意外に近いのではないか?
*  *  *
 実際、科学技術の進歩は「SF的現実」を予想外の速さで実現してきた歴史です。
 飛行機の発明で「鳥のように空を飛びたい」という夢をついにかなえた人類があっという間に人間を月に送りこんだのがわかりやすい例ですが、二十一世紀に入って技術進化の加速ぶりは実際に「マウスイヤー」と呼ばれるほどすさまじいものになっています。
 それだけではありません。
 これは成毛真さんが『AI時代の人生戦略』(二〇一七年一月)のなかでふれておられましたが、いまや飛躍的に進化しつつあるVR(バーチャル・リアリティー)がもたらす人間をめぐる「リアリティ」をめぐる環境変化がある。
 成毛さんはその変化について、わたしも№9「初音ミクと仏教」のコラムでとりあげた〈プレステ4〉の実現した、
「車酔いするほどリアルなゲーム」
の個人的体験を材料に語っています。
 そもそも、仏教の基礎にあるのは、
「人間には初めからリアリティなどない」
 という教えでした。
 それを支えるのがインド人の開発した「空」(ゼロ)の思想ですが、そこでは、
「心」
「身体」
 の二つ、つまり人間の「心身」のリアリティが根こそぎ否定されてしまう。
「心身」という言葉は「自己」という言葉に置き換えてもかまいません。
「空」の思想を発達させたのは大乗仏教の「般若経典」のグループでしたが、そのトップバッターになった『八千頌般若経』には、こんなブッダと弟子のやりとりがでてきます(文中にあるスブーティは弟子の名です)。
 
ブッダは言った。
「たとえば、熟練した魔術師が交差点で多くの人間を魔法で作り出したとしよう。そして作り終えたあとその人間たちを消し去ったとする。どう思うか? スブーティ、この場合、だれかがだれかを殺害したことになろうか?」
 スブーティは答えた。
「いいえ、なりません、師よ」
 
どうでしょうか?
いうまでもなく、ここでの「殺害」はもののたとえ、要するにこれは人間の心身=自己をめぐる「空」思想、
「リアリティのはかなさ」
 を強調するために作られた強烈な問答でした。
 ライフサイエンスの専門家の小林さんはSF的事態は一朝一夕には起きないと言う。
 が、問題はその「一朝一夕」の長さです。
SF的世界は実現するためにあります。
 高校生がプリクラ並みの気楽さで「人間改良」をおこなう時代がきたとき、それを支えるのが、
「IoTネイティブ」
 のニュー・ジェネレーションが新しい衣装のもとに呼吸する、
「ゼロの汎神論」
 の世界観だったとしても必ずしも不思議ではない、とわたしには思えます。〔2017・5・11〕

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