IoT社会と「梵我一如」

 言葉の生命ほどはかないものはない。
 そんなことを最も考えさせた最近の出来事が、「ユビキタス」から「IoT」への交代劇です。
 つい数年前までこれからの社会を規定する言葉として脚光を浴びていた「ユビキタス」は、ここ一年の間に「IoT」にあっさりとってかわられてしまった。
 しかも、どちらも中身は実質的にほぼ変わらないだけに「諸行無常」の感ひとしおのものがある。
 実際、TRONの開発者で「ユビキタス化技術」普及の旗振り役として二〇〇七年に『ユビキタスとは何か』という啓蒙書を岩波新書からだした坂村健博士は、似たような内容からなる啓蒙書をこんどは『IoTとは何か』(角川新書二〇一六)というタイトルで出版するはめになった(?)ほどです。
 ユビキタスとはもともと「神は遍在する」(いつでもどこでもあなたを見守っている)という意味の宗教用語ですが、そうした万有のテクノロジー(IoTテクノロジー)が支配的な社会には、それにフィットする思考の基本的な枠組みがあるのが自然。とすれば、   
 それは何だろうか?
 それは、
 梵我一如(ぼんがいちにょ)
 の哲学ではないか? というのが今回のテーマです。
 ただ、ユビキタス・コンピューティングの時代と言うのは簡単ですが、その技術的環境のダイナミックな深化は、いま話題のロボット・テクノロジーとの洗練された結合なしには語れない。
 おりしも坂村博士が『ユビキタスとは何か』を世に問うた二〇〇七年、日本のロボティクス(ロボット工学)の第一人者國吉康夫教授は横浜でひらかれた世界SF大会で「ロボットボディ・ロボットマインド」と題した講演をおこなった。
 國吉教授は、
「いつでもどこでもコンピューター」
 のユビキタス化の進展がもたらす社会を、ロボット研究の立場から、いみじくも、
「ユビキタス・セルフの社会」
 と規定し、それは「身の回りのあらゆるものが感じ、行動し、コミュニケーションし合う」社会、「モノの世界とココロの世界の融合、そして創発」のシステムの時代だとして、つぎのようにのべました。

  いまユビキタス社会……いろいろなセンサーやアクチュエーター(作動装置)が出て、ネットワークで全部つないでしまうことが進んでいま すが、すると私自身が身体をまったく変化させてしまって、次の瞬間に皆さんの家の中の机に乗り移って、そこで意識を持つということが起こり得るかもしれない。(『サイエンス・イマジネーション』NTT出版二〇〇八)

 そう、ここでのキーワードは「コミュニケーション」です。
「ユビキタス・セルフ」とは――國吉教授の説明によれば――ユビキタス化された社会のなかで「あらゆるものに乗り移」る、つまり空間をこえて遍在する「ココロ」なのだという。そのとき「モノの世界とココロの世界」の間の境界線は消える。人とモノの区別はなく、世界はココロであり、ココロは世界である。その際、あらゆるものに宿るココロの遍在性、ここに着目して「ユビキタス・セルフ」と称する。
 どうでしょうか? 日本の仏教徒にはどこかなつかしさを誘う展開、遠くインドの風香る子守歌、先祖代々の教えの復活ではないでしょうか? なにやら〝相性の良さ〟について語りたくなる時代の到来ではないでしょうか?
「梵我一如」とは何か? この四文字熟語のいう「梵」とは「あらゆるものの本性をなす実在(=万有のリアリティ)」、「我」とは「自己」をさします。
 マクロコスモスとミクロコスモスの究極的一致の思想(コスモロジー)ですが、これはブッダの在世した時代、バラモン教(ヒンドゥー教)の知識人たちが開発し、提示した宗教的な世界観を基礎づける考えでした。
 日本の仏教者のなかには、「仏教はこの梵我一如の原理を克服したところに成立した」と言う人がいます。
仏教がバラモン教支配下のインドで異端の教えとして発足したことは事実です。ただ、右の「克服説」はその異端性(その強調がもたらすプライド)にあまりに強くとらわれた見方です。
 なるほどブッダ自身は「梵」的なるものには無関心だったかもしれない。が、ブッダの死後数百年たって誕生した大乗仏教の歴史のなかでそうした姿勢は結局維持されなかった。されないどころか、結果的にバラモン教の世界観にもどってしまった。
 たとえば、日本の禅宗・曹洞宗の宗祖道元(一二〇〇~一二五三)に『正法眼蔵』という渾身の大著があります。そのなかの「光明」の章につぎの言葉がでてくる。

  尽十方界は是自己なり。自己は尽十方界なり。廻避(ういひ)の余地あるべからず。

「尽十方界」とは「全世界」(あらゆるもの)をさす言葉です。道元は世界とは自己であり、自己とは世界だとする。これなどはまさに、いまのべたマクロコスモスモスとミクロコスモスの一致の「汎神論」の発想、世界に遍在する自己、ユビキタス・セルフの世界観の大乗仏教版でしょう。
『正法眼蔵』とはその書名の通り「正しい仏の教えを漏らさずまとめた」書物、つまり道元が仏道修行を通じて会得した「真理の集大成」の書物です。しかも、右に引用した認識もまぎれもない「真理」の一部、そこから「廻避」する、逃げる余地はないと道元は言う。
 道元のこの洞察は、
 仏の目から見た世界
 についてなされたもの、つまり座禅の瞑想下で見た、自(「能」)と他(「境」)の区分の廃絶された世界(自他融合の世界)を表現したものですが、その点はあとでふれることにして、重要なのは、もはやここでは無機物と有機物の区分は当然のように廃棄されているということです。
 曹洞宗に伝わる瑩山禅師(一二六八?~一三二五)の注釈書に『信心銘拈提』があります。その一節は、國吉教授が語っていた「モノとココロの融合と創発」の世界のメカニズム、ありようを具体的に語ります。

  能をして境ならしめば、露柱、燈籠の古仏と交わる。

「自」と「他」の区別を廃すれば、柱や石の燈籠も(瞑想下で)悟りを得た聖人と交わる。

 そうした世界にあっては、

  枕子好く説き、露柱好く聴く。墻壁瓦礫、信受奉行し、木人石女、礼を作して去らん。

 枕が教えを説き、柱がこれに耳をかたむける。垣根や壁、ガレキが人の言うことをのみこんで従い、木や石で作った人間・女があなたに礼拝してゆくだろう。

  一はすなわち一切、一切はすなわち一なり。

 それは「一なるもの」が「すべて」であり、「すべて」が「一なるもの」の世界である。
ここでは、まさにあらゆるものが融合状態においてコミュニケーションし合う世界が語られている。「木人石女」は端的に國吉教授が愛するロボットを想起させますし、そこまでゆかなくても、あらゆるものに埋めこまれたデバイス――センサー、アクチュエーター――が「セルフ」として稼働する、ユビキタス・セルフの世界、人とモノとの隔てがなくなったコミュニケーションの世界の姿そのものが語られているといえるのではないか?
 くりかえしになりますが、
 ユビキタス社会
 とは技術的には、いま話題の、
 IoT社会のことです。
 ここまでくると、道元さんはわれわれがこれから迎え入れようとする社会、先進的なIoT社会の支配原理を八百年も前に先取りしていた。
やっぱり禅ってすごい、さあ皆さん曹洞宗に入りましょう……と言ってすませたくなるところですが、そうすんなりと話が運ばないのが厄介なところです(どうでもいい話ですが、わたしは父方の実家の宗旨が曹洞宗ですが、以前住職が寺の山林を勝手に売り払ってハゲ山にしてしまい、檀家一同が激怒するという全然悟ってない騒動がありました)。
 まず最初に、「梵我一如」にいう「梵」すなわち世界と、「我」すなわち自己は、インドにおいてともに「実在」として理解されていました。一方、道元の言う「尽十方界」と「自己」とはまさに「空」、つまり実体を欠いたものとみなされています。とするならば、同じ一元論とはいえ、二つの考えはまるで正反対ではないか、という反論が予想されます。
 これはさきほどふれておいた「仏教は古代インドの梵我一如の克服の産物だ」という考え方からくる反論ですが、結論からいえば誤った歴史の認識にもとづくものです。
 道元思想は「空」思想を柱とするものです。その「空」思想を語って最も親しまれた経典に例の『般若心経』がある。そのなかに「諸法空相」という言葉がでてくる。
「諸法」すなわち「あらゆるもの」は「空」、つまり実体を欠くという特質をもつという意味の文句ですが、これが「ユビキタス・セルフ」の世界観の「空」バージョンとみなせる考え方であることは明らかでしょう。
「空」はインド数学の「ゼロ」に由来する言葉ですから、「諸法空相」はまさに、あらゆるものは「ゼロ」を特質とするとする「ゼロの汎神論」の宣言になる。道元の言う自己と世界(「尽十方界」)がともに「空」だというならば、それは自己と世界は「ゼロ」性において一致する意味だととるほかありません。
 古代インドの「梵我一如」と道元が傾倒した「空」思想は一見真逆にみえます。が、後者は前者が「自己」と「世界」に認めた実在性をゼロ化したうえでそっくり復活させたもの、前者の発想をいわば裏口から取り入れた「ゼロ・ヴァージョン」だったといえます。
 まえに大乗仏教の歴史のなかで「梵我一如」の克服は結局守られることなく復活をみた、と書いた訳はここからきています。
 そしてそのことを考える意味は、バーチャル・リアリティのテクノロジーの進化とともにますます増すことになる。
 実際――これは拙著の『村上春樹と仏教』のなかにも書きましたが――IoTテクノロジーとバーチャル・リアリティのテクノロジーの手を携えた進化のなかで、ポスト・ウェアラブルの時代が到来し、街角でポンと手を叩くと虚空にタッチ・バネルが幻のように出現し、飛行機を予約をし、終わって手を叩くと消える。そんな世界が日常化すれば、「現実」と「幻影」の境は人々の頭のなかでかぎりなく曖昧になってゆくのは避けられないでしょう。
 そのとき、未来の「ユビキタス・セルフ」の社会が、「空」なるセルフが人とモノとを問わずコミュニケーションし合う社会として人々に自然に意識されるのは大いにあり得ることです。
 つぎに、道元思想の「先取り性」の見方に対する反論は、右のものにかぎりません。ほかに、道元は座禅の瞑想下で見た世界、「仏の目で見た世界」を叙述したにすぎず、われわれがふだん見る世界の叙述ではなかったはずだ、という主張があります。
 しかし、これは「空」思想の世俗への影響をあまりに少なく見積ったものではないか?
 たとえば、さきほど引いた『般若心経』に「色即是空」という文句が登場する。
「色」は「形あるもの」のことですから、「ものは空なり」という意味の文句ですが、これも元はといえば、インドの坊さんが瞑想下で得た認識を言葉にしたものです(仏教の「認識」はすべて「瞑想下の認識」を源流としているところに特徴があります)。
 ただ、あたりまえのことですが、昔から瞑想に親しむ人間の数などごくかぎられていた。
 普通の庶民は瞑想などとは無縁、お経も読めず、ただ坊さんの説教を通じて「ものは空なり」という結論に耳を通してなじんでいた。その結果はどうだったか。仏教に詳しい知識のない人間も「色即是空」と聞いただけで反射的に何がしかの感興をいだくまでになった。
 つまり、「耳学問」が文化となり、仏教の教えが世俗の人々の間で血肉化された。
文化の刷り込みとはこういうことであり、この意味で道元(に代表される禅哲学)が日本人の自己と世界の関係のとらえ方に一つの枠組みをあたえたという言い方は充分に可能なのです。
したがって、大乗仏教の輸入の結果、裏返しの形で受容されることになった「梵我一如」の思想が「ユビキタス・セルフ」のIoT社会、それもその超先進的な形が実現されたあかつきにそれを支える「精神的インフラ」として機能しても不思議はないし、しなければ逆に不思議だといえるでしょう。
 最後に、こうした「精神的インフラ」は日本特有のものでしょうか? そう考えるのはわれわれにとっては心地良いものがありますが、どうもちがうようです。
 十九世紀末から二十世紀初頭にかけての世紀転換期のドイツ現代思想をかじった人ならば、「新しい共同体」運動の名を聞いたことがあるでしょう。
 当時ドイツ語圏におきた田園都市運動、自由身体文化運動(裸体運動)などと並ぶ社会的改革運動の一つで、一九〇〇年にベルリンで設立されたものでした。
 その設立宣言にはこのような文章がでてきます。

  われわれは、実現可能な一元論という世界観を共有し、多様性の統一ならびに、変転と反復的回春、万物の不断の新生と発展という統合的 見解を有する。この見解の中心をなすのが、世界と自我は同一であるという認識、すなわち世界―自我という観念である。世界―自我として、 存在するあらゆるもの、あらゆる人間とあらゆる事物は永遠であって、始原も終末もなく、不朽不滅なのだ。そして絶えざる新たな変容のな かに、永遠から永遠へ、あらゆる存るものが存在するのである。

 これは設立者であるハンイリヒ・ハルト、ユリウス・ハルトの兄弟を中心に書かれたものですが、ここに「梵我一如」の西洋版の発想を認めるのは容易でしょう。
 この「新しい共同体」はキリスト教の「物質」(もの)と「霊魂」(こころ)の二元論を攻撃した汎神論的一元論者エルンスト・ヘッケルの影響を受けた運動でしたが、アナーキストのグスタフ・ランダウアーや人智学の創始者のルドルフ・シュタイナーのほかユダヤ・ルネサンスを指導したマルティン・ブーバーなどの先進的な知識人が参加した運動として一世を風靡しました。
「梵我一如」は古代インドに生まれた思想ですが、その発想自体はキリスト教が支配的だった西洋でもいわば「異端」的な形で伝統的に存在したものでした。
「ユビキタス・セルフ」のテクノロジーの時代がそれに最もふさわしい「思考の枠組み」を要求するとき、かれらまた相似した発想の種を自身の歴史のなかに見出すのかもしれません。

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