仏教から見た水道橋博士の「語り」

「週刊藝人春秋」は、水道橋博士さん(以下、勝手にハカセで統一)が、いまをときめく『週刊文春』に連載している藝人を中心に芸能界に棲息する人々の生態を題材にした潜入リポートです。
 連載はこんどで三回目。前回の連載分をもとにまとめた単行本『藝人春秋2』(上)(下)が去年2017年の11月に発売され、わたしもこの「エッセイ欄」に、
「仏教から読む『藝人春秋2』」
 というタイトルで、書評を書かせていただきました。
 わたしの本の読者は仏教に興味を抱く人々が多いのですが、幸いこの書評は、ふだんとくに仏教に関心をもたない方々にも「へえ、そういう見方もあるのか」と面白がっていただけたようです。
 その後、再始動したハカセの「週刊藝人春秋」は、2018年の4月下旬の現在、快調に回を重ねており、『藝人春秋3』の書評を書く日が楽しみに待たれますが、それがいつになるのかわかりません。
『藝人春秋2』の書評は――読まれた方にはおわかりの通り――書かれてある潜入リポートの内容よりもその手法、ハカセが老練に駆使する、
「スキャンダリズム」
 にフォーカスしたものになりました。
 ハカセの「毒舌」と禅仏教の伝統的な売り芸である、
「逆説説法」
 との興味深い類似性もそのなかでとりあげた話題の一つでした。
 が、じつは仏教を研究する者の目からみて関心をそそられたのは、この点だけにはとどまりませんでした。
 今回とりあげるのは、その残されたトピックのいくつかについてです。 
 本当は、これらのトピックについては『藝人春秋3』の書評の際にあらためて書こうかと思っていたのですが、それを待っていれば、書き手のわたしはもとより、ニッポンそのものがどうなっているかわかりません(大ゲサな)。
 それでは困るので、今回、予定を大幅に前倒しして、
「仏教から見た水道橋博士の『語り』」
 というタイトルのもとに、とりあげさせて頂くことにしました。
 タイトルがしめす通り、今回の小文でフォーカスするのは、水道橋博士という特異なタレント(才能)が自家薬籠中の物としている独特の「語り」の特徴についてです。
 これに関しては、さまざまな角度から論じることができますが、ここでは、仏教との関わりに視点を据えつつ、
 ■ 観察(observation)
 ■ 饒舌(lengthiness)
 さらに、
 ■ あの世の感覚(sense of other world)
の三つの柱に沿って、考えてみたいと思います。
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【観察】
 ハカセにまつわる有名なエピソードの一つに、いまは亡き関西の天才司会者やしきたかじんさんから、
「お前は芸人の目じゃない、記者の目だ、観察者の目だ!」
 と言われたというものがあります。
 この出来事については本年の2月28日に配信されたメールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」に再録された町山智浩さんとのトークライブのなかでも紹介され、
「その時、自分が見抜かれたっていう感覚が忘れられない」
 とハカセ自身が語っておりました。
「週刊藝人春秋」を読んで気づくのは、それが徹底した、
「ファクト・ファインディング」
 つまり、事実の観察による追求の手法をふまえながら、一方「語り」においては、
「事実に基づく真実の物語」
 あるいは、 
「事実と真実のはざまの物語」
『藝人春秋2』(下)の帯の文句を借りれば、
「超ノンフィクション」
 という、いわば「物語化」のスタイルをとっているということです。
 もちろん、こうした選択にハカセの藝人としてのエンターテインメント精神の発露を見出すのは容易なわけですが、はたしてそれだけなのか。そこには世界の語り手としての直観のようなもの、
「世界は究極のところ物語としてしか語れない」
という考えがひそんでいるのではないか。
 いや、というよりも、そういう考えの持ち主だからこそ、藝人として「虚」の世界に遊ぶ職業を選ぶことになったのかもしれません。
 ただ、これはじつは「記者」という職業への「適性」にもからんでくる問題なのです。
山本夏彦さんという十数年前に亡くなられた評論家がいました。寸鉄人を刺す辛口コラムの名手として鳴らした方で、わたしは個人的に親しくさせて頂きましたが、あるとき山本さんが記者の仕事について、
「事実をすべて言葉で伝えられると思っているタイプの記者さんが一番困るんだ。言葉は万能じゃないのだからね」
 と笑いながらおっしゃったことがありました。
 言葉は表現の手段として意外に不自由なものだという趣旨の話で、何気ない雑談のなかの一言でしたが、これを聞いたときふと思い出した文句がありました。
それは『楞厳経』(りょうごんぎょう)という仏教の経典にでてくる、
「月を指したら指を斬れ」
 という文句で、ここにいう「月」とは世界のありのままの姿、「指」はそれを表すときに使われる「言葉」のこと。この文句は、日本では禅宗で、世界を言葉で語ろうとする者への警告、「言葉万能主義」への戒めとしてよく引き合いにだされてきたものでした。
 山本さんにいわせると、同じ記者の仲間でも、言葉が表現手段としてもつ「限界」についての謙虚さを欠いた「悪しき」言葉万能主義者はなぜか新聞記者、それも「正義派」の記者に多いということでした。
 その点、むしろ週刊誌の記者の方にその意味での「限界」、言葉が万能じゃないことへの自覚、あるいは「言葉の空しさ」の感覚を自然な形でもつタイプが多いとのことでしたが、そう考えると、ハカセが『週刊文春』で輝きの場を得ているのも納得できる話に思えます。
『藝人春秋2』の「プロローグ」は、
「事実は真実の敵なり――」
 という文句でしめくくられています。
 これは、事実を語る道具としての言葉の不自由さの自覚、つまり、
「世界は究極のところ物語の形でしか語れない」
 ということに対する敏感さナシにはあり得ない言葉です。
 そしてそのことが、つぎの「饒舌」の問題に関わってきます。
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【饒舌】
 ハカセの「語り」にはだれが見ても気づく一つの特色があります。それはとにかく長いということです。
 個々の文章が長いということではありません。全体の分量がハンパじゃなくすごいということです。
『藝人春秋2』自体が1ページあたり44字×18行で二百数十ページの上下二巻本というこの種の書物としては異例に長尺なものになっています。
 ハカセが主宰するメールマガジン、さきほど紹介した『水道橋博士のメルマ旬報』には「博士の異常な日常」という日記が連載されていますが、これもとにかく長く、また個性的な執筆陣をそろえる『メルマ旬報』自体が一号あたり二十万字強という重戦車並みのボリュームを誇るものになっています。
 つまり、ハカセは自分もたくさん世界を語りたいかわりに、他人にもたくさん語らせたい人なのです。
 ここに見られるのはまぎれもなく、
「世界を言葉で埋めつくしたい」
 という衝動です。
 禅宗で伝統的によく使われる言葉に、
「不立文字」(ふりゅうもんじ)
 という四文字熟語があります。
 これは一口にいえば、
「世界の真理をつかみたいならば言葉にこだわってはならない」
 という意味の文句で、禅仏教の代表的なスローガンの一つになっています。
 その底に横たわるのは言葉への不信、まえにふれた言葉のもつ限界への鋭い意識です。
「言葉の空しさ」への醒めた直観といってもよいでしょう。
 では、その話がハカセの「饒舌」とどう関わるのか?
 日本には多くの仏教の宗派がありますが、禅宗は――道場で坐禅を組む禅僧を見ればわかる通り――仏教のなかでもとりわけ沈黙を尊ぶ宗派で、「沈黙の仏教」という異名があるほどです。
 実際、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える浄土仏教の宗派や「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら法華太鼓を叩く日蓮宗、また護摩を焚きながらマントラを唱える真言宗などとくらべれば、その違いはだれの目にも明らかでしょう。
ところが――これは笑い話としてよく言われる話ですが――では、仏教の各宗派のなかで最も雄弁、つまりおしゃべりが上手い坊さんが多いのはどこかというと、面白いことに禅宗なのです。
 わたしは仕事柄、お寺にくわしい宗教記者の体験談に接する機会がありますが、かれらは異口同音に「おしゃべりが多いのは禅の坊さん」と言う。
 事実、書店の仏教書のコーナーには多くの本が並んでいますが、書き手をみれば一目瞭然、今も昔も日本の宗派のなかで一番たくさん本をだしているのは禅宗のお坊さんたちです。
 要するに、禅というのはこの矛盾を「説法」、つまり坊さんの「語り」の芸に昇華させた宗派、
「言葉の空しさを言葉を尽くして説く」
 宗派なのです。
「世界は究極のところ言葉では語れない。だからこそ語り倒す価値がある」――わたしがハカセの「際限のない語り」に感じるのもまたこの匂いです。
 さきほど、すぐれた記者は言葉が抱える「限界」への認識をもつとのべました。ただ、ハカセの場合、そこに「求道性」が加わっている。これがハカセの文章上に特有の「饒舌」をもたらすものであり、いわゆる記者とハカセを分けるものともなっている。そんな気がします。
 それでは、この「求道性」が世界の「観察」において発揮されたとき、なにが起きるか?
 それが「あの世」についての感覚です。
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【あの世の感覚】
 まえに引いた町山智浩さんとのトークライブのなかにこんなやりとりがでてきます。

 町山「(ハカセは)もう自分は『あの世』にいるんだっていう意識で書いているのでは?」
 水道橋「今、あの世かな、この世かな、みたいな感覚は抜けない」

 これは、お二人がいう「あの世」がもののたとえ(比喩)として使われている点をふくめて面白い問答です。
 そして、ここでも、禅との共通点がでてきます。
 仏教にはさまざまな宗派があります。「あの世」の問題についてもその実在を説く宗派もあれば説かない宗派もある。このうち禅宗は後者に属する宗派です。
 わたしはハカセのご実家の宗旨が何宗かは知りませんが、禅は伝統的に「あの世」、すなわち地獄極楽について、
「地獄も極楽も人の心のなかにある」
 という立場をとってきました。
 こうした立場は自然、自分自身のなかに――地獄であれ極楽であれ――「あの世」の感覚を抱えて生きる態度につながることになる。
 わたしは昔から一休宗純という室町時代の禅僧が好きなのですが、かれの言葉に、
「地獄は眼前の境界(きょうがい)」
 というものがあります。
 眼前の境界とは、生者の目に映る周囲の世界のことですが、やしきたかじんさんが言った「観察者の目」が求道性を帯びるとき、それはかぎりなく「末期(まつご)の目」に近づくかもしれない。
 記者の醒めた眼プラスどこか熱っぽいドクロの目。
 禅のお坊さんは説教の際に、「世界のありのままを見よ」とよく口にしますが、この「世界のありのまま」とはじつは「世界は無常であること」です。
 一休には、正月にわざわざ長い錫(しゃく)の先にドクロを乗せて京の町中を歩き回り、「ご用心! 正月は地獄の一里塚じゃ」
と警告したという伝説があります。
 ハカセには、顔つきといい目つきといい、編み笠をかぶり、錫を手に、鋭い眼光を四方に放ちながら辻説法をする坊さんに扮したら似合う雰囲気があります。
舞台などで一休を演じたら、いかにもハマることでしょう。
 一休は目の前の地獄と対峙しつつも笑い飛ばし、そうした生き方を、
「風狂」
 とみずから名づけました。「藝人春秋」の神出鬼没、狂気と侠気にみちた「道化」の調査活動を支えるのもまた、現代ニッポンの破戒坊主の風狂の精神なのかもしれません。
 ハカセの「文春砲」誌上での地獄巡りの行脚はまだまだつづきます。
 この行脚の旅が終わるときそこに待ち受けるものははたしてなにか。それを見るまではニッポンは滅びるわけにはゆかないようです。

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