仏教から読む『藝人春秋2』

 毒舌を使いこなすのは誰にとってもむずかしい。その成功の秘訣、それは使い手の〝聖なるもの〟へのあこがれの強さにかかっているのではないか――本書を読みおえて最初に浮かんだ感想がこれでした。
 水道橋博士の『藝人春秋2』(上)(下)は、毒舌の天才ビートたけしさんの弟子で、自身も第一線のお笑い芸人であるハカセこと水道橋博士さん(以下、勝手にハカセで統一)が放つ、
〝芸能界潜入物〟
 の記念すべき第二弾です。
 前作で芸能界の「真実」を暴く「ルポライター」を演じてみせたハカセは、こんどは「秘密諜報部員(スパイ)」として、テレビの世界の舞台裏に潜りこみ、返り血をおそれず「身内」の「スキャンダル」を斬って捨てる〝暴挙〟にうってでました。
 そこには、掛け値なしに、
「スキャンダリズム」
 の〝華〟がたちこめています。
 しかも、新旧のエピソードを織り交ぜる形をとった前作に対し、今回は現在進行形のネタに絞ったぶん、斬り込みの迫力、スプラッター度はさらにハンパじゃなくなるわけで、続編を待ち望んでいた読者にはたまらないものになっています。
 意外に思われるかもしれませんが、スキャンダリズムの手法は仏教と相性がいいものです。
 いわゆる、
〝毒舌説法〟
 の系譜がそれですが、とくに禅宗系にこの分野の名手が目立つ。
 たとえば、中国の禅僧の臨済義玄(?~866)。いまに伝わる臨済禅の祖になった唐の傑僧ですが、かれには、
「仏に逢うては仏を殺し、
 父母に逢うては父母を殺し、
 初めて解脱することを得ん」
 という今日ツイッターでやれば炎上必至の毒舌があります。
 もちろん、殺生の戒は仏教の基本中の基本、義玄といえども実際に人殺しをすすめたわけではありません。
 要は、わざと鬼面人を驚かすような発言をやってのけ、聞き手にショックをあたえ、凝り固まった常識の殻にヒビを入らせる。発言の目的はあくまで相手をすみやかに「解脱」、つまり「一切のとらわれからの解放」に導く点にあるわけで、挑発による問題提起、覚醒の手法は禅僧の得意とするところでした。
 また、わが国でこの意味での「スキャンダリズム」の撹乱戦術を駆使したお坊さんといえば、まず思い浮かぶ名に一休宗純(1394~1481)があります。
 応仁の乱の激動の世を生きた臨済宗の禅僧でしたが、戒律なんてクソくらえ、みずからを、
「風癲(ふうてん)」
 と称して、暇さえあれば遊郭に入り浸って朝から酒をくらい、漢詩作り三昧。
 老いては森女という盲目の旅芸人の美女と同棲して、彼女との閨の秘事をネタに、
「美人の淫水を吸う」
 などとふざけた題のポルノまがいの艶詩を作っては、人々を呆れさせていました。
 では、なぜこんなことをわざわざするのかといえば、これまた義玄流の〝ショック療法〟ですね。簡単にいえば、「俗」にまみれることで「聖なる真実」をあぶりだす作戦。「聖」と「俗」のはざまにあってみずから「俗」に徹することで「聖」のありかを逆説的に浮かび上がらせる捨て身の露悪戦術。
『藝人春秋2』はハカセ自身がかかわった「芸人」の皆さんを標的にしますが、登場するのは狭義の「芸人」にかぎらず、田原総一朗、井筒和幸、みのもんたといったジャーナリスト、映画監督、司会者、また石原慎太郎や徳田虎雄など広くTVで活躍する著名人たちです。
 なかでも強烈な印象を与えるのは、ハカセが2013年6月15日にテレビ大阪の「たかじんNOマネー」で橋下徹大阪府知事とのバトルからひきおこした生放送降板事件をめぐる真相の暴露。
 ネタバレになるので話の詳細は読んでのお楽しみとしておきますが、ここで「事実と真実のはざまの物語」をうがつ本書、「超ノンフィクション」の送り手としてのハカセの手腕は全開に至ります。
 このスリリングな一節は、結局のところ、
「死ぬのはオマエだ!」
 という事件の「黒幕」某氏にハカセが投げつける毒舌で幕を閉じるのですが、面白いのはこの降板のパフォーマンス(「挑戦的ギャグ」)に対するハカセ自身の評価です。
「……一連の降板劇は自分の意図とは離れ、世間には多くの誤解を与えたが、一方で、芸能界に潜入した諜報部員の攪乱作戦としては、少なからず何らかの問い掛けと意味を帯び、一定の成果をあげたのではないだろうか?」
 どうでしょうか? ここに一休スタイルの毒舌和尚の面影、逆説説法の匂いを感じるのはわたしだけでしょうか?
 本書のエピローグで、ハカセはこの必殺の「超ノンフィクション」が「人間の業の肯定」の物語だったことを明かします。
「業」は仏教用語で、サンスクリット語の「カルマ」の訳語です。もともとは人間の未来を決定する「行い」を意味する言葉でしたが、「業」の本質は「矛盾」にあります。
 インド人はこの「矛盾」に悩んだすえに、「善悪の彼岸」への希求を説くブッダ(お釈迦様)の教えに救いを見出すことになります。
 毒舌は言葉ではありません。行動です。
 わたしたち凡夫は「超えた」何かを修行者のように希求することはむずかしい。でも、あこがれることはできる。
 仏教は、このあこがれの生き方をなしとげる人物に「仏」の名を与えます。
 では、ハカセにとっての「仏」はだれでしょう?
 そう、それは、物語の末尾、紀尾井町の某サロンの「漆黒の宙」のなかに姿を現わします。まさにハカセに本書を書かせた「黒幕」として。
 読者はその正体を知り、「あっ」と驚きながらも膝を打つことでしょう。【2017.12.2/7:40am】

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