『騎士団長殺し』再読

【story】
 妻と別居中の36歳の画家「私」は、小田原郊外の山の上に古い塚のある家を借り、屋根裏で『騎士団長殺し』という日本の古代の剣士が争う絵を発見する。それは借家の元の居住者である孤高の日本画家・雨田具彦が描いた謎めいた絵だった。
 ある日、「私」はふとしたいきさつで塚を掘り返し、空っぽの石室を見つける。すると、まるで封印が解かれたように不思議な出来事が「私」を見舞い始め、ついには絵の中で殺害されていた「騎士団長」が借家の一室に現われる。
 同じ頃、「私」は近所に住む元IT実業家の免色や絵画教室の生徒の秋川まりえと交渉をもつ。やがて謎の失踪をとげるまりえ。騎士団長は、「彼女を取り戻したければ自分を殺せ」と「私」に指示する。すべての感情を無にして騎士団長を刺し殺した「私」。するとその目の前に、まりえを吸いこんだ異世界の扉が口を開いていた。

 本作品は村上春樹の14作めの長編小説。
 村上のホームグラウンドというべき「空」の世界観に戻ってきた注目作です。
 本作品を発表した直後、読売新聞のインタヴューに応じた村上は、「自分の古い作品は読み返したことがない」(読売新聞2017・4・3)と語っています。
「古い作品」がどの範囲をまでをさすのかは不明ですが、この作品は村上のこれまでの長編に登場し、「村上らしさ」を支えた「空」の世界観の道具立てが万遍なくとりこまれ、配列されているのが目をひく特色の一つになっています。
 同じような「とりこみ」は『1Q84』にもみられましたが、2010年のあの作品が密教をベースにそうした道具立てを「集大成的に」ぶちこんでぐつぐつと煮た熱い鍋料理だとするならば、本作品はなじみの具材をバランスよく並べ、淡白な味わいに仕立てたスープ料理にたとえられるかもしれません。
『騎士団長殺し』では日本画が重要な役目を割りふられますが、ここではその際キーワードとして用いられる「白」という用語に注目しつつ、作品の世界観について論じてみたいと思います。
 日本の絵画は余白を尊び生かす伝統をもつとはよくいわれるところですが、それは――あとでふれるように――仏教的な世界観と密接なかかわりをもっています、
 物語は、ゼロ年代(2000年代)の半ば、妻に「あなたとは一緒に暮らしていけない」と愛想づかしされて家を出た主人公の「私」(36歳)が、小田原郊外に友人から借りた家の屋根裏で『騎士団長殺し』と題された一枚の不思議な日本画を発見するところから始まります。
 それは「大胆な余白とダイナミックな構図」をもつ、一目で家の元の居住者、日本画家の雨田具彦の手になるものとわかる作品でした。画面に描かれているのは飛鳥時代の果し合いの場面。「若い男が剣を年上の男の胸に突き立てている」暴力的な瞬間の映像がただならぬ迫力をかもしだしています。
「私」がその絵に「何か特別なもの」を感じ、心を揺さぶられてしばらくたったある夜更け。「私」は庭の古い石塚の下から響く「ちりん、ちりん」という鈴の音に気づく。それは、「私」の耳に、なぜか、誰かが送ってよこす「辛抱強く信号化されたメッセージ」に聞こえました。

〈……誰かがその石の塚の下で、鈴のようなものを振って鳴らしているらしい。そのことはどうやら間違いはない。でもいったい誰が? そのときになってようやく私は、得体のしれない恐怖のようなものを身のうちに感じ始めた。〉

*****
 初めのうちは「これ以上その音源には近づかない方がいい」と本能的に感じた「私」でしたが、たまたまその頃、自分の肖像画を制作してほしいと依頼してきた近所の「白い屋敷」に住む「処女雪のように純白な」白髪をたくわえた元IT企業家の免色が、話を聞いて非常な興味をしめした。結局、かれの勧めで、「私」は業者に頼んで石塚を掘りおこすことになります。
 塚の石をとりのぞいて現われたもの、それは直径2メートルほどの空っぽの石室とその底に置かれた「古代の楽器」のような鈴でした。
 免色は「石室の暗闇を一人で体験したい」と驚く「私」にあらためて石室の蓋をさせ、一時間ほど閉じこもった。
 やがてでてきた免白は、「目に見えることだけが現実だとは限らない。……我々の人生においては、現実と非現実との境目がうまくつかめなくなってしまうことが往々にしてある。……その境目はどうやら常に行ったり来たりしているように見えます。その日の気分次第で勝手に移動する国境線のように。その動きにはよほど注意していなくてはいけない」と謎めいたせりふを口にする。
 数日後の日曜日の真夜中、その「予言」は見事に的中することになります。

〈……私は、居間のソファの上に何か見慣れないものがあることにふと気づいた。クッションか人形か、その程度の大きさのものだ。しかしそんなものをそこに置いた記憶はなかった。目をこらしてよく見ると、それはクッションでもなく人形でもなかった。生きている小さな人間だった。身長はたぶん六十センチばかりだろう。その小さな人間に、白い奇妙な衣服を身にまとっていた。そしてもぞもぞと身体を動かしていた。まるで衣服が身体にうまく馴染まないみたいに。いかにも居心地悪そうに。その衣服には見覚えがあった。古風な伝統的な衣装だ。日本の古い時代に位の高い人々が着ていたような衣服。衣服だけではなく、その人物の顔にも見覚えがあった。
  騎士団長だ、と私は思った。〉

 騎士団長は、自分は「無形のイデア」だと名乗り、免色と「私」が石塚を掘り返したおかげで閉じこめられていた穴から外にでることができた、と説明した。かれには実体はなく、絵の騎士団長の形体を「便宜上拝借」して「私」の前に現われたのだという。かれはじぶんを「あたし」と呼んだ。

 「あたしはいぶかしい真夜中が好きなので、だいたい午前一時半から二時半のあいだに形体化することにしている。……あたしはあの穴の中にいて、何らかの理由によってそこから出ることができなかった。……あそこから出してくれたことに関しては、諸君にしかるべく感謝しておるよ……あの免色という男にも感謝しておる。彼の尽力がなければ、穴を開くことはできなかったはずだ」

 饒舌に自己紹介した騎士団長は、しゃべりおえると、ひっそりと目を閉じた。体の輪郭がぼやけ始め、数秒後に消滅してしまった。

〈すべてが夢の中で起こった出来事のように思えた。私はただ長く生々しい夢を見ていたのだ。というか、この世界は今もまだ夢の延長なのだ。私は夢の中に閉じこめられてしまっている。そういう気がした。しかしそれが夢でないことは、自分でもよくわかっていた。これはあるいは現実ではないかもしれない。しかし夢でもないんだ。私と免色は二人であの奇妙な穴の底から騎士団長を――あるいは騎士団長の姿かたちをとったイデアを――解き放ってしまったのだ。〉

*****
「私」はあらためて『騎士団長殺し』の絵をながめた。騎士団長は相変わらず胸に剣を突きたてられながらそこにいました。

〈雨田具彦が日本画の筆と顔料で描きあげた架空の人物が、そのまま実体をとって現実(あるいは現実に似たもの)の中に現われ、意志を持って立体的に動きまわるということは、まさに驚くべきことだった。しかしじっと絵を見ているうちにだんだん、それが決して無理なことではないように、私には思えてきた。……現実と非現実、実体と表象のはざまが、見れば見るほど不明確になってくるのだ。〉(カッコ内原文)

 どうでしょうか? ここまで書いただけで、「ハルキワールド」全開という印象をもたれる方も多いでしょう。
 とくに村上の読者として連想を刺激させられるのが『海辺のカフカ』で「メタフィジカルな観念的客体」を自称して現実の世界に現われ、登場人物と交渉をもったカーネル・サンダーズ。あの奇妙な「人物」も「私には実体というものはない。私は抽象概念にすぎない」「かたちがないものだから、何でもなれる」と騎士団長と同じような言葉を口にしていました。
 そして『騎士団長殺し』の主人公の「私」もまた「何が正常であり、何が正常でないのか、何が現実であり何が現実でないのか、だんだん見極めがつかなくなっている」宙ぶらりんの不安に襲われます。そう、あの田村カフカ少年と同じように。
 村上春樹の長編の世界を支えるのが仏教の「空」の世界観であることに関しては、私の『村上春樹と仏教』Ⅰ・Ⅱ(楽工社2016)でくわしく論じました。
「空」の世界観は村上にとって、孫悟空のおしゃか様のてのひらです。
 村上自身もおそらくそのことを意識し、いわば愛憎織り交ぜた二重感情のなかで、その世界観との格闘、往きつ戻りつを作品ごとにくりかえしてきました。
『海辺のカフカ』と『騎士団長殺し』の二つの物語の世界を共通して支えるのは、存在と非存在(無存在)、現実と夢の対立を「ゼロ」の原理のもとに蒸発させる「空」の世界観です。
 カフカ少年は「ゼロ」の無限反射のなかで、気がつけば、万物照応の夢の迷宮にのみこまれてゆきます。

 「君は懸命に現在の位置を見いだそうとする。流れる方向を見さだめようとする。正しい時間の軸をつかまえようとする。しかし夢と現実の境界線をみつけることはできない。事実と可能性の境界線さえみつからない」『海辺のカフカ』

 騎士団長との交渉の進行のなかで「私」も迷宮の流れの感覚を味わいます。

〈私のまわりで渦の流れが徐々に勢いを増しているようだった。そして私はもうあとに引き返すことができなくなっていた。もう遅すぎる。そしてその渦はどこまでも無音だった。その異様なまでの静けさが私を怯えさせた。〉『騎士団長殺し』

 こうしてカフカ少年が四国の山中で異世界の「森」に迷いこむように、『騎士団長殺し』の「私」は絵の発見と石塚の掘り返しをきっかけに口を開いた地底の異世界に吸いこまれてゆくことになります。

*****
「私」の異世界巡りのきっかけをつくったのは免色という情報ビジネスの裏世界に通じているという噂の五十男でした。村上の長編のなかで、この珍しい名をもつ男ほど奇妙奇天烈な外貌の形容を加えられた人物はすくないかもれません。
 たとえば、初めて「私」の前に現われたときの描写。「最初に目を惹いたのは、なんといってもその髪だった。軽くウェーブのかかった豊富な髪は、おそらく一本残らず白髪だった。灰色とかごま塩とか、そういうのではない。とにかくすべてが積もりたての処女雪のように純白なのだ」「濃い緑色のサングラスをかけ、長袖の真っ白なコットンのシャツに(ただ白いだけではない。真っ白なのだ)カーキ色のチノパンツをはいていた」「その白さには何かしら尋常ではないところがあった」(丸カッコ内原文)
 免色がさしだすのはもちろん「真っ白な厚手の名刺」ですし、住むのは「白いコンクリートの屋敷」、その屋敷で「私」にふるまう料理は白ワインに白いんげんのサラダといった徹底ぶりです。
 そして、いうまでもなく名前も「免色」という色の不在を表わす記号になっている。
 村上は作品のなかで「白」という概念に強い関心を抱く作家です。しかも、この一字には毎回きまって、
「無」(空っぽ)
「真空」
「重要な何かの不在」
「死」
 といったもののイメージが託されている。
 もっとも、最後の「死」はわれわれがつねに「生」と対で語る、「生命の不在」でもあります。
 実際、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、この作品のなかで「完全な無」を実現した異世界、「街」で主人公の「僕」があてがわれた住まいは「二階建ての白い官舎」でした。

〈下見貼りになった杉材にも窓枠にも狭いポーチにも窓の手すりにも、白いペンキが塗られている。見わたす限り何もかも白だ。西の奥の街角にはあらゆる種類の白が揃っている。塗りなおされたばかりの不自然なくらい輝かしい白。太陽の光に長いあいださらされた黄ばんだ白。雨まじりの風にすべてを奪いとられたような虚無の白。そんな様々な白が、丘をめぐる砂利道沿いにどこまでもつづいていた。〉『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 免色はインターネットの世界で特異な地位を占めた人物だったことがほのめかされますが、かれは自分のことを「ただの無」「空っぽの人間」だと感じるときがあると「私」に告白します。
 また、ネット社会をめぐる現代の寓話として読まれることの多い『アフターダーク』では「純粋な抽象概念」で出来ているという「あちら側」の異世界が「空白のほかに何も見えない」空間、「色のない空間」として描かれていました。
『国境の南、太陽の西』で三途の川のイメージを重ねたと思われる北陸の川には「真っ白な雪が固くこわばって」凍てついた川原が顔をだし、そこで「硬く白い息」を吐いた島本さんが謎の「白い灰」を流す儀式をおこなったことを同作品の読者は思い出すでしょう。

*****
 この『騎士団長殺し』には「私」が15歳のときに病死した2歳下の妹の逸話がでてきます。その死の場面では、「色を抜かれたような蛍光灯の光」が支配する火葬場の一室で、「鋏で切られ花瓶にいけられた不吉な白い花」に囲まれた柩に横たわる妹の姿、「ワンピースには白いレースの丸襟がついていて、それはほとんど不吉なくらい白かった」彼女の姿が回想されます。
 前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』でつくるにレイプ犯の濡れ衣を着せたあげく、悪霊に呪われたように不審な死をとげる女性も名前は白根柚木、友人たちに「白」と呼ばれていた等々、あげてゆけばきりがありません。
 そして、『騎士団長殺し』の「私」が語る「キャンバス禅」。

〈朝の早い時刻に、まだ何も描かれていない真っ白なキャンバスをただじっと眺めるのが好きだった。私はそれを個人的に「キャンバス禅」と名づけていた。まだ何も描かれていないけれど、そこにあるのは決して空白ではない。その真っ白な画面には、来たるべきものがひっそりと姿を隠している。目を凝らすといくつもの可能性がそこにあり、それらがやがてひとつの有効な手がかりへと集約されていく。そのような時間が好きだった。存在と非存在の混じり合っていく瞬間だ。〉

 もう一つ、白髪といえば、『スプートニクの恋人』で「あちら側」の異世界に半身を奪われたミュウが「見事な白髪の女性」になって主人公の前に現われます。「まるでぬけがらみたいだ――それが彼女に対してまず最初に感じた印象だった。……なにかとても重要なものが、彼女の中から消滅していた。そこに残されているいちばん重要な意味は存在ではなく、不在だった。生命の温もりではなく、記憶の静けさだった。その髪の純粋な白さはぼくに、避けがたく、歳月に漂白された人骨の色を想像させた」

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 江戸時代、通人の間で「白紙賛」という絵(の鑑賞法)が流行したことがありました。
 美術評論家の矢代幸雄(1890~1975)が論文のなかで紹介していますが(『禅と芸術Ⅱ』1997所収)、掛け軸の本来ならば絵が描いてあるべきところが白紙になっており、そこに賛(コメント)だけが書き連ねられている。矢代によると、これは「なにもないところがいちばん無尽蔵なんだ。そこには花もあり、月もあり、楼台もある」、したがってなにもない白紙こそが「いちばんの名画」だという考え方にもとづくもので、漢詩人で茶人としても知られた藤村庸軒(1613~99)が唱えたのが最初だという。
 キザといえばキザ、やることがなくなった江戸のディレッタントの極みのような遊びですが、「空」思想は――くりかえしみたように――あらゆる「形あるもの」は本来「ゼロ」(=空)であり、世界はこの「ゼロ」が様々な形をとって仮現したものにすぎないと説きます。
 仮現したものにつけられた「花」や「人間」といった名を、仏教では「仮名(けみょう)」と呼びますが、こうした世界観から「白紙賛」は生まれてもおかしくないものです。本作品の「キャンバス禅」はこれを想い起こさせます。
 ちなみに禅書で「無」の言葉が使われる場合、
(1)「有無」の「無」
 つまり実体的な無(ベタな無)のほかに、
(2)有無の対立を越えた「空」
 を仮に「無」と呼ぶ場合があり、読む場合には注意が必要です。
 実際、この「無」は、村上の長編のなかで――「空っぽ」、「真空」、「虚無」などとともに  ――よく目にする言葉ですが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『アフターダーク』では、(2)の「空」の意味、『騎士団長殺し』でもその意味で使われています。
 一方、異世界の登場するファンタジー物でありながら実在論的な世界観にたつ『国境の南、太陽の西』の「無」は(1)のベタな方で、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』でつくるがまみれる「無」もこちらの方です。
『ねじまき鳥クロニクル』は唯識論を物語の下地にした小説ですが、主人公が呼吸する「無」にわざわざ傍点を振っている箇所がみられ、二つの「無」をめぐる村上の敏感さ、本能的な区分の意識をうかがわせます。

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 本作品はいままで村上が発表してきた長編に用いられた道具立てをバランスよくとりこみ配置したおもむきがある、とまえに書きました。
 一番わかりやすいのは――いまふれた通り――『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の「白」あるいは色彩の欠如に託された実体(「何か重要なもの」)の不在のイメージの再登場があります。
 が、それだけではありません。本作品の主人公は別居の直前に夢のなかで妻とセックスをし、現実の精液を放出しますが、これは『ねじまき鳥クロニクル』の主人公と女霊媒師の間に起きた出来事の焼き直しです。
さらに、「私」は、そうした放出の結果として、別の場所にいた妻を「受胎」させることにより、こんどは『1Q84』の青豆と天吾の物語を思い出させることになります。
 夢から覚めた「私」は、「人は本当に心から何かを望めば、それを成し遂げることができるのだ。……ある特殊なチャンネルを通して、現実は非現実的になり得るのだ。あるいは非現実は現実になり得るのだ。人がもしそれを強く望むのなら」と考えますが、ここでも青豆と天吾のカップルの「信じる力」「愛し合う力」が「1Q84」で二人を再会させ、さらにはそこからの脱出の成功へと導いた物語のパターンがそっくりなぞられていることがわかります(もっとも、二人の脱出先が本当に元の世界だったかについては、読み手によって議論の分かれるところですが)。
『騎士団長殺し』の「異世界」は、登場人物たちの言葉を借りれば、「無と有の狭間をすり抜ける」ところに存在する「空間と時間を欠いた世界」です。その住人の一人である「顔なが」(「ただのつつましい暗喩(メタファ)」を自称する)によると、そこは「どこまでも関連性に揺れ動く世界」でもある。またべつの住人の一人が「目に見えるすべては結局のところ関連性の産物です。ここにある光は影の比喩であり、ここにある影は光の比喩です。ご存じのことと思いますが」と絵解きするとき、それがあらゆるものが比喩としてたがいを投影しあう『海辺のカフカ』の大島のいう「相互メタファー」の世界観の再登場であることは明らかでしょう(本作品では「相互メタファー」の代わりに「二重メタファー」という用語がさきの「顔なが」によって使われます。ちなみに、この「二重メタファー」は主人公「私」の心のなかに存在する「白いスバル・フォレスターの男」として、やはり白のイメージとともに語られます)。
『騎士団長殺し』の主人公は、みずから異世界のフタ(古い石塚)をあけることにより、「何が現実で何が非現実かわからない」世界、覚醒も夢も、論理も非論理も、善も悪もすべてが「関連性に揺れ動く」世界にほうりこまれることになります。

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『海辺のカフカ』で「いるのかいないのかわからない」存在の立場から、大島と並んで、世界の絵解き役の一人をつとめたカーネル・サンダーズはみずから「世界と世界のあいだの相関関係の管理」にあたる役目の者を自認しました。かれは、

「ロジックやモラルや意味性はそのもの自体ではなく関連性の中に生ずる」
「すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、正義も悪も、すべてのものごとは液状的で、過渡的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない」

 と「関連性に揺れ動く」世界のメカニズムを明かします。すべてのものが実体を奪われ、「関係」に解消される世界、それはあらゆる対立を欠いた、衝突のない世界です。
『1Q84』のBOOK1・2が同時に発売された直後、村上春樹は作品の執筆の背景について語った新聞インタヴューのなかで、「仮説のなかに現実があり、現実のなかに仮説がある。……そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった」(読売新聞2009・6・16)と語っています。
 が、こうした「現代社会のシステム」がうむ世界観は、日本ではなにも今に始まったものではありません。それを新しいものと感じるのは歴史的健忘症の所産、実際、すべてが「関連性」のなかに境界を蒸発させる世界は、仏教では昔から「世界の実相」としてあたりまえのように語られ、受け入れられてきたものなのです。
 村上のデビュー作『風の歌を聴け』をあつかった『村上春樹と仏教』Ⅰのなかで、江戸初期の「仮名草子」の、

  歌ふも舞ふも法の声
  悪といふも善
  煩悩といふも菩提なり

  何をか捨て何を考えている取り、
  何をか愛し、何をか悲しむべけん。

 という歌の一節を紹介しておきました。仏教で煩悩は迷いの元、菩提は悟りの別名にほかなりません。迷いも悟りも結局は一つのもの。二つの区分を蒸発させるもの、それが「空」の原理であることはいうまでもありません。
 江戸後期の禅僧の良寛は歌人としても知られましたが、かれが詠んだ漢詩のなかにこんな一節がでてきます。

  有美則有醜 美があれば醜があり、
  有是則有非 是があれば非がある。
  知愚之依因 知と愚は関連性のなかで互いに依存しあい、
  迷悟互相為 迷いと悟りも相関的なものである。
  古来其為然 昔からこの通りだったのだ。
  何必今如斯 なぜ今だけがそうでないことがあり得よう?
  棄之欲取彼 どちらか一つを棄て、一つを取るならば、
  唯覚一場痴 ばかげた執着という一時の笑いの種になるだろう。

 どうでしょうか?
 村上春樹は「グローバル化」の申し子のように語られます。が、そのじつかれの語る世界は、われわれにとっての古くて新しい世界です。「空」がもたらす、現実と仮説の境界があいまいな「一如」の世界、対立のない世界を、村上春樹はデビュー以来語りつづけてきました。飽きることなく、回転木馬のオルゴールのように。

*****
 村上の長編小説のほとんどは、主人公が失われた何かを探し回るseek and findのプロットからなります。
『騎士団長殺し』でseek and findの対象となるのは、主人公と免色の二人がかかわりをもつ秋川まりえという少女です。
 村上の物語世界は『ダンス・ダンス・ダンス』の「羊男」の言葉を借りれば「すべてがつながっている世界」、つまり「関連性に揺れ動く世界」です。
まりえはあるとき突然行方不明になり、それを知った「私」は、その出来事が自分が「騎士団長殺し」の絵を白日のもとにさらし、石塚を暴いたこととかかわりがあると直感する。
 本作品のクライマックスは、「私」からまりえ探しへの協力を求められた騎士団長が、自分を殺せと指示する場面です。それは雨田具彦の「騎士団長殺し」の絵の忠実な再現を意味しました。
 騎士団長は「諸君はあたしをあの穴から出した。そして今、諸君はあたしを殺さなくてはならない。そうしなければ環(わ)は閉じない。開かれた環はどこかで閉じられなければならない。ほかに選択肢はあらないのだ」と主張します。
 それを聞いた「私」は混乱したものの、一切の感情を殺して包丁の柄をつかむ。騎士団長の「小ぶりな心臓をまっすぐに刺し突いた」瞬間、「関連性」の玉突きのなかで、地底の異世界へと通じる入り口が目の前で口を開くことになります。
 そのあと、主人公が「未知の惑星に一人で降り立った宇宙飛行士のように」まりえの姿を求めて地底深く広がる荒野や高い崖、洞窟を駆け回るあたりは、だれがみても『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の主人公の一人・暗号計算士による老博士探しの場面のパロディ的なセルフ・オマージュ、縮小サイズの再現になっています。
 そして「私」は、異世界の「光は影の比喩であり、影は光の比喩である」という世界をくぐり抜けることにより――『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」や『1Q84』の青豆、天吾の二人がそうであったように――自身が「揺れ動く関連性」の一部となり、世界のねじを巻くことで、まりえの蘇りと自身の再生を手にすることになります。
 本作品は発表直後の前出のインタヴューで村上自身が「幼い子を〈恩寵のひとつのかたち〉として育てようと自然に受け入れる。人が人を信じる力。これは以前の(自分の長編の)結末には出てこなかった。僕の小説に家族の営みが登場したのも初めて」と語る通り、夢のチャンネルの受胎で誕生した娘の寝顔を「私」が見守る穏やかな場面で幕をおろします。
 
*****
 本作品は、「すべてがどこかで結びついている。その結びつきから諸君は逃げきることはできない」(騎士団長)という世界観と感覚のもと、主人公の行動の一つ一つが次々とリアクションの連鎖へとつながる村上の異世界物の「型」を手際よくおさらいしてみせたものになっています。
 最近の村上春樹の長編は「自己模倣」が目立つ、という意見を耳にすることがあります。
 私はかならずしもこうした意見に与しませんが、本作品で村上の長編作品が一巡した印象はたしかにいなめません。このまま同じ「春樹調」を維持して旋回をくりかえすならば、「二巡三巡」の印象はいよいよ強くなるようにも思えます。
「空」の世界はすべてがフラット化された「神」なき世界です。これは数年前に『春樹文学の行方』という題のエッセイのなかで書きましたが、村上がこの先新しい展開を望むならば、キリスト教的な神をめぐる垂直構造のダイナミズムをもちこむしかないのではないか。
 実際、『1Q84』の青豆の神への信仰は非常に新鮮でしたし、そうした新機軸にもとづいた世界を切り開く力量に村上はめぐまれている。
 村上はすぐれた短編小説の書き手ですが、自身の資質について、「僕は……最終的には、自分のことを『長編小説作家』だと見なしています。……長編小説こそが僕の主戦場であるし、僕の作家としての特質、持ち味みたいなものはそこにいちばん明確に――おそらく最も良いかたちで――現われているはずだと考えています」(『職業としての小説家』2015)と語っています。
 長編14作目の本作品で、これまでの長編のいわば総ざらいをすませた村上が今後どのような展開を――「あっ」と言わせるような裏切りもふくめて――みせてくれるのか、読者の目はすでに「次」に注がれているようです。

【補】白

「空」は白の概念と相性がよい。      『世界の終りとハードボイルド・ワン
 白は、歴史的にみて主に建築の分野を   ダーランド』は村上の長編のなかで最も
中心に「抽象性」「観念性」「モノトー   人工的に「空」の世界を構築した作品だ
ン」などの概念とともに語られてきた。   ったし、『アフターダーク』は「空」の
 村上春樹の長編で「モノトーン」が作   原理を無機的なカメラ視点で描く実験作
品自体のアンダートーンとなったものと   だった。
しては『世界の終りとハードボイルド・    ただ、『騎士団長殺し』では「白」の
ワンダーランド』と『アフターダーク』   とげとげしさは総じて緩和されており、
があげられよう。             免色の白いコンクリートの家にツツジや
 英国の批評家のデイヴィッド・バチェ   山吹、椿などの色彩をあふれさせ、その
ラーは『クロモフォビア』(色彩恐怖症)  居間には「ある種の温かみがある」と主
という著書のなかで、白の強調は「これ   人公に語らせるところなどは、本作品の
みよがしの空虚」「鼻につく空白」「自己  微温的な性格をよく表わしている。
主張の強い沈黙」と結びつくとしている。  
                          (2019.4.25公開)

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