第一回 春樹文学の行方について

世の中にはたくさんのすぐれた小説家がいます。
かれらの書く小説の中味はさまざまです。
エッジの利いた〝純文学〟系の小説もあれば、〝エンターテインメント〟系の小説もある。
いまのところで、
純文学

エンターテインメント、
この二つの語にわざわざカッコを付けたことにお気づきになったでしょう。
実際、――文学の世界では常識といってよい部類に属しますが――両者の境はとうの昔に流動的になっている。もっといえば、あってないも同然になっている。
 これは世界的な潮流といってよいものですが、日本文学でこの潮流を決定的に推し進める力となったのが春樹文学の登場で、かれが頑固な文学的なジャンル分けを突き崩してくれたおかげで、現代の日本文学は、良くも悪くも、
 ハルキ以前

 ハルキ以後
 とに二分されることになったほどです(純文学を対象とした最も有名な賞である芥川賞を村上さんがとれなかったのは、旧来型の純文学観に馴れた選考委員たちが村上作品に抱いた「違和感」が理由の一つでした)。
 そこで本エッセイのタイトルですが、つぎの長編作品を心待ちにする「ハルキファン」の方々のだれもが関心をもつところでしょうが、結論からいえばそれを知っているのは村上さんご本人だけです。
 ただ、そう書いただけで終えてしまえば文字通り話になりません。そこであえて予想屋めいたことを試みるならば、ポイントの一つは「神」にあるのではないか。
 村上さんのデビュー以来の長編小説の流れをみると、一つの顕著な特色が認められる。インド仏教の思想史的流れを――ほとんどパターン化された紆余曲折を通じて――結果的になぞっているということです(この点は『村上春樹と仏教』を参照)。
 ただ、インド仏教には、大づかみに言って、一つの面白い特色があります。無神論から有神論への流れというのがそれです。
 仏教の開祖はいわずと知れたブッダですが、ブッダという人は人間の救済に関与する神という観念に一切関心をもたなかった。かれにとっての救済はあくまで神(的なもの)の手を借りない自力救済のことだった。
 当時のインドはすでにヒンドゥー教(バラモン教)という多神教の支配下にありましたが、こうした姿勢のためブッダは、
ナースティカ
というありがたくないレッテルを同時代のインド人から貼られた。
「ナースティカ」とはインド語で「そうではないそうではないと言う人」という意味で、現代でいう無神論者あるいは虚無主義者をさしていました。
 仏教はブッダの死後教義と実践の両面で多くの変容を重ねますが、このブッダの「ナースティカ」の側面を引きついだのが大乗仏教の有力学派、中観派の「空性論(くうしょうろん)」者たちでした。
そんなわけでかれらもがまた「虚無主義者」の非難を、仏教内外の論敵たちから非難されることになったのですが、興味深いのは、その一方で大乗仏教がこれとは異なるもう一つ別の太い流れを生みだしたことです。それがブッダの「無神論」的姿勢にいわば見切りをつけて「神」を求めようとする流れでした。
 大乗仏教はブッダの死後四百年以上過ぎた紀元前後(紀元前一世紀~紀元後一世紀)に活発化した仏教の革新運動の所産でしたが、ほぼ同じ頃、ヒンドゥー教もまた一大刷新運動の季節をむかえ、ヴィシュヌ、シヴァの二大崇拝対象としたパワフルな宗教への衣替えに成功します。
 この刷新運動にきっかけをもたらしたのは西方のイランからの文化刺激でしたが、仏教徒たちはその熱気をみて、一言でいえばうらやましくなったのですね。
 自分たちもヒンドゥー教徒のように神(キリスト教型の救済神)をもちたくなった。
 歴史的にみると、そのある意味で当然の願望の結果として、浄土仏教と密教という二つの「新仏教」が誕生をみることになりました。浄土仏教のかかげた神の名をアミターバ(またはアミターユス)、密教の神の名をヴァイローチャナといいます。
 それぞれのちに中国で阿弥陀仏、大日如来と訳されることになりました。
 時期的には密教の本格的な成立は七世紀~八世紀とかなり遅れますが、とはいえ、宗教運動に試行錯誤はつきもの、どちらの場合も真一直線に進んだわけではありません。
 そこに立ちはだかったのが、さきにのべた「空性論」で、新しい仏教はそれを相手にとりわけ教義面で生みの苦しみを経験することになった。
 すなわち、以後の仏教は「神」への希求と世界のすべては「空」(したがって神も「空」)なりとする空性論とのせめぎ合いを歴史に刻印することになりました。
 同じ仏教のもった神といっても、阿弥陀仏は超越性の強い人格神、それに対して大日如来は世界内在性の強い汎神論的な神といった違いがあります。
 村上さんの『1Q84』(二〇一〇)は密教的な世界観を採用していますが、この作品には主人公の一人として心の奥底で神を信じる女性が登場して新鮮な印象を放っています。これが今後の村上作品の動きにどう結びつくか。
 最新作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(二〇一三)で村上さんは「仏教の原点」へ先祖返りするというスリリングな動きをみせましたが、今後の春樹文学の行方の一つは「神」が握っている。そう言ってさしつかえないように思えます。

村上春樹と仏教 Pagetop

Copyright (C) 2018 平野 純 All Rights Reserved.